*ひだまり妊活日記*

*ひだまり妊活日記*

不妊症&不育症治療と8度の流産を乗り越えた七転八起な日々の記録

6回目の着床と経過 ②…妹との別れ

 

 

恵愛医院に転院後、初めての移植で陽性判定が出ました。

着床後からの経過の記録の続きです。

 

 

 

BT23/6w 0d

土曜日でしたが夫は出勤日だったので、朝から一人で受診。

この日は担当医がお休みで、院長先生による診察でした。


もう採血は必要ないようで、最初に内診室に呼ばれました。

内診で痛みを伴いやすい私は、初めての先生だと不安になるのですが…。

いざエコーしてもらうと、

“痛くない!”

先生上手だなぁ~と、まずはひと安心。


そしてエコーの結果、卵黄嚢が見えました。

よかった!と安心するも、その後も先生はエコーを続け、何やら確認している様子。

 

…無言。


これまでの経験上、内診台でのこういった時間は、良い結果を招いたためしがありません。


おそるおそる、「何か…ありますか?」

と聞いてみると…。

まさかの言葉が返ってきました。

 


「卵黄嚢は2ヶ所に見えます。一卵性双生児ですね。」


えっっ………?!

 


頭が真っ白になり、返事ができませんでした。

モニターの先生が指したところを見ると、横長の胎嚢の中に白い輪っかが2ヶ所。

そしてその中に、微かだけれど確実に、チカチカ動くものが見えました。

驚きと同時に感動が爆発し、涙が出そうになりました。

“卵は1つしか戻してないのに、2人分の命が宿ったんだ…!”

辛い治療を頑張ってきた自分に、神様からのご褒美ではないかとも思いました。

 

 

その後、診察室に呼ばれて先生とお話。

私の高ぶる感情とは異なり、先生の表情は曇り気味。

双子に関する知識が0だった私は、その理由がわかりませんでした。

「今のところは順調です。ただ、双子…特に一卵性双生児というのはリスクが大きいので、まだまだ安心できません。胎盤がうまく分かれないこともあります。」

「通常だと、当院には10週頃まで通院してもらいますが、双子の場合は早めに産院を受診してもらうことになります。」

そう説明を聞き、ようやく高リスクであることを理解しました。


これまでの流産歴を考えると、確かに安易に喜ぶことではないのかもしれません。

しかし、この説明を聞いた後も私は興奮がおさまらず。

まさかの報告に驚く夫の顔を思い浮かべて、ワクワクしていました。

 

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午前中に診察が終わり、午後からは甲状腺専門医のいるクリニックへ。

引っ越し前から通っているクリニックのため、恵愛医院から1時間以上かけて向かいました。

妊娠後は身体に負担になる行動は避けたかったけれど、仕事が休みの土曜しか通院できないため、同日に受診することになったのです。


幸い、この時期はまだ悪阻が軽めで、電車で酔うことはありませんでした。

先ほどの結果を思い出しながら、のんびり電車に揺られていると…。


実家の隣の県に住む年子の妹からメールが届きました。

開いてみると…現実とは思えない文字がそこにあり、自分の目を疑いました。

 

 

「◯◯(一番下の妹)が死んじゃった」

 


………?!


まさか………?!?!

 

 

 

血の気が引くのを感じました。

きっと何かの間違いのはず…。


ちょうど甲状腺クリニックの最寄駅に着いたため、降りると同時にすぐに両親に電話。

ようやく繋がった父親の声は、泣き叫んでいて聞きとれませんでした。


わかったのは、妹の死が事実ということだけ。

足元がふわふわして、うまく歩けず。

目の前にある駅の椅子にさえ、なかなかたどり着けませんでした。

 

鳴り止まない動悸と戦いながら、メールをくれた年子の妹に電話し、ようやく事態を把握しました。

 

 

電話を切ったあともしばらく動けませんでしたが…。

地方にある実家までは片道4時間の距離。

“とにかくすぐに帰らないと!”

仕事をしている夫に何度も電話をかけ、急遽帰ってきてもらうことに。


私はそこから自宅のマンションまで1時間かけて戻り、帰省するための荷物を詰めながら、夫を待ちました。

 

帰宅した夫に状況をひと通り説明すると、

「体調は平気?病院は大丈夫だった?」

と私を気遣ってくれました。

「私は大丈夫。赤ちゃん、双子だったんだよ。」

そう答えると、夫は一瞬驚き、そのあと頰が緩みました。

“喜んでいいのか…。でも今はそんな状況じゃない。”

目を細めてうなずくその表情には、そんな複雑な心が滲み出ていました。

まさかこんな形で報告することになるとは…。

 

 

 

ひと息つく間も無く、タクシー、電車、新幹線を乗り継ぎ、実家にたどり着いた時には日も暮れていました。

 

 

実家には、冷たく硬くなった妹が寝かされていました。


もう笑うことのないほっぺたを触ったとき、ようやく涙が出ました。

 

 

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その後、職場に一週間のお休みをいただき、お通夜、告別式、遺品の整理、諸々の手続きなど、両親と支え合いながらなんとか進めました。


そして、告別式の後に一度自宅に戻っていた年子の妹と入れ代わりで、再び関東に戻る日。

帰省して一週間後の土曜日。受診の日でした。

 


この日まで、一度だってお腹の赤ちゃんのことを忘れたことはありませんでした。

妹の突然の死がどれだけ辛くても、この子たちには私しかいないんだと思うと、心を強く持つことができました。

しかしその一方で、さすがに厳しいだろうというネガティブな気持ちもありました。

あまりに大きすぎるショックに連日の睡眠不足、食生活の乱れ…。

これまでちゃんと生活していても流産したのだから、うまくいくわけない。

心のどこかで覚悟はしていました。


どっちにしても、今回の結果をしっかり受け止めなければと心に決めて、実家を後にしました。